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「距離を置くこと(Disitancing)」や「脱中心化(decentering)」

認知療法とかマインドフルネスとかの議論ですが

メタ認知の問題では
特定の固定観念を変えようとする技法は用いず、「認知のしかた」を変えようとする技法を用いる

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マインドフルネスではメタ認知の変容を試みる

人間が何かを体験してそれを認知するという場合、
やはりそれは一時的で断片的で錯誤を含むものでもある
と考える

それは当然だ
人間の一回や数回また意見を絶対化してはいけないだろう

今自分はそのように感じたけれど
別の感じ方や考え方の可能性はあるな、と考えることができる

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人間の脳はいくつもの仮説を考えている
いつも現実と仮説の比較検証と訂正を反復して
その中でどの仮説が正しいかを検証して選択している

だからマインドフルネスでいうように
一時留保の形で保持することはややすっきりしない結論である

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しかしまた考えてみると
そのように、いくつもの可能性を保持して、留保しておくという考え方は、
そのような可能性を可能性として保持するというメタレベルの態度である
メタレベルで考えるとすれば、やはりそれが最適戦術ということですっきりした気分にはなる

いろいろな可能性があるでしょうと留保をつけながら
現実を注意深く、マインドフルネスに体験すれば良いと考えれば
かなりすっきり理解できる

たとえばベックは「距離を置くこと(Disitancing)」を語ったわけだし
現在ではピアジェの理論などを参照しつつ「脱中心化(decentering)」と呼んだりする

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量子力学で語られる現実
あるいは多宇宙理論で語られる現実
いくつもの可能性の重ね合せとして現実は存在していて
観察によって一つの「現実」に結実する

従って、真の現実とは、重ね合わされたままの可能性としての現実であり、
それを知覚し、それに従えば、ずいぶんといいのだろうとは思う
簡単ではないけれど

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人間は感情の生き物で
感情はしばしば認知を単純化してしまう

いろいろな可能性の重ね合せとして現実を受け取ることが出来なくなる
敵と味方はくっきりとわけられるし
正義と不正義は明確に分けられる

しかしまた、たとえば、忠臣蔵の興奮が過ぎ去ってみると
相対的な正義の現実が浮かび上がる

忠臣蔵の皆さんも「距離を置くこと(Disitancing)」や「脱中心化(decentering)」を
試みてみたら違う展開になったかもね、という感じはする









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