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手回し充電ライト付きFMAMラジオ・携帯充電可能・ソーラーパネル・時計付き・耐水

手回し充電ライト付きFMAMラジオ・携帯充電可能
というものを見せてもらった

時計・アラームにもなるので常時枕元において使っていても邪魔ではない
ソーラー発電パネルも付いている

水に濡れても大丈夫の設計

いいかも

鉛筆についての考察

こういう話、案外そうですね、採録

ーー
わたくし、鉛筆
レオナード・E・リードさんに伝えられた私の家系図

 わたしは鉛筆です。読み書きできるすべての少年少女、大人にはお馴染みの、普通の木でできた鉛筆です(注)。
 ものを書くのはわたくしの本職でもあり、趣味でもあります。それ以外のことはしません。
 どうしてわたくしが家系図を書くべきなのかを、不思議に思うかもしれません。ふーむ、まず第一には、わたくしの話は興味深いものなのです。そして次に、わたくしは神秘であり、木々や日没、さらに稲妻の閃光よりも、もっと神秘的なのです。しかし悲しいことに、わたしを使う人たちからは、まるで背景など存在しない、単なる偶然であるかのように、当たり前のものとして扱われています。この傲慢なる態度が、わたくしを凡庸なるレベルにおとしめています。これは嘆かわしい過ちの一種であり、危険なくして人類が存続できないものです。なぜなら、賢人G・K・チェスタートン(訳注)が見てとったように、「我々は驚きを失うことによってではなく、驚くことを失うことによって死に絶えつつある」からです。
 わたくし鉛筆は、単純には見えますが、あなたの驚きと畏れに値するのです。このことは、これから証明いたす所存です。事実、わたくしのことを理解してもらえれば、 ― いや、それは誰に対してもあまりにも大きなことに過ぎますが、 ― もしわたくしが象徴している奇跡性について意識することができるなら、不幸にも人類が失いつつある自由を救う手助けになってもらえるでしょう。教えるべき深い教訓があるのです。そして、わたくしはこの教訓を、自動車や飛行機、自動皿洗い機よりもうまく教えることができます。なぜなら、ふーむ、わたくしがとても単純なものに見えるからなのです。
 単純ですって? とはいえ、わたくしの作り方を知っている人は、この地球上にはただ一人としていないのです。すごいことだと思いませんか? 特に、毎年アメリカではわたくしと同じものがおよそ15億本も生産されているのだから、なおさらです。
 わたくしを取り上げて、よくご覧ください。何が見えますか? そんなに大したものじゃない。木とラッカー、印刷されたラベル、黒鉛、小さな金属、消しゴム、ぐらいです。

数えきれない素性
 ちょうど、あなたの家系図を大昔まで遡ることができないように、わたくしのすべての素性をとり上げて説明することはできません。しかし、わたくしの背景のもつ、豊かさ、複雑さに想いを馳せるに十分なほどを示したいと思います。
 わたくしの家系の樹は、実際の樹から始まります。オレゴンや北カリフォルニアに育つ、木目のまっすぐなヒマラヤスギです。そして、ノコギリやトラック、ロープやその他の無数の機械によって、ヒマラヤスギの伐採され、丸太が線路脇まで運搬されるのを想像してください。機材を製作するために働く人達と、その数えきれないほどの特殊技術。鉄鉱石を掘り出し、鉄を精錬し、ノコギリや斧、モーターへと洗練すること。アサを育て、いろいろな段階を経て、重くて強いロープをつくり出すこと。丸太の切り出しキャンプとベッドやトイレ、台所から、そこでの食べ物を育てることまで。おやまあ、材木労働者の飲むコーヒーでさえ、ここで語られてはいない何千もの人々の手になるものなのです! 
 丸太は、カリフォルニアのサンレアンドロにある工場に送られます。長物の貨車やレール、エンジンやその生産者、そこに付随する通信システムを整備した人たちを想像できますか? こうした無数のものがわたくしの素性の一部なのです。
 サンレアンドロでの工場作業を考えてください。ヒマラヤスギの丸太は、6ミリにもみたない厚さで、鉛筆の長さの小さな薄い板にされます。そして窯で乾燥されたあと、女性が顔に口紅をぬるのと同じ理由から色づけされます。人びとは、青白い鉛筆よりも、かわいらしい鉛筆のほうが好きなのです。板にはワックスがかけられ、もう一度窯で乾燥されます。色付けと窯、工場で必要とされる熱、光やエネルギー、ベルトやモーター、その他を供給するのに、どれだけの熟練技術が使われているでしょうか? わたくしの祖先には工場の掃除人もいますか? その通りです、そしてその中には、水力発電のダムに使われたコンクリートを流し込んだ人もいます。電力会社の水力発電は、工場への電気を供給しているのです。
 貨車60台分の薄板を国中に運搬する人たちは、ここだけでなく遠方にもいることも見逃さないでください。
 鉛筆工場は、4億ドルもの機械や建物です。わたくしを産み出してくれた親である人たちが、倹約と貯蓄によって資本を蓄積したのです。中では、複雑な機械によって薄板には8本の溝があけられ、その後、別の機械が薄板一枚おきに芯をおき、のりを塗り、もう一枚をその上にのせます。いわば、芯のサンドイッチです。わたくしと7人のきょうだいは、この「木に固定された」サンドイッチから機械で彫り出されるのです。
 わたくしの芯自体には「鉛筆」とは言うものの鉛はまったく入っていませんが、それは複雑なものなのです。黒鉛はセイロン島で採掘されます。炭鉱夫や彼らが使う数多くの道具をつくる人たち、黒鉛が運搬される際に使われる紙製の袋や、袋を固定するための縄をつくる人たち、船に積む人たちや船をつくる人たちのことを考えてみてください。道中の灯台守、港の水先案内人もが、わたくしが生まれるのを助けてくれたのです。
 黒鉛はミシシッピから来た粘土と混ぜられ、その精製過程では水酸化アンモニウムが使われます。水分を与えるために、スルホン酸化された獣脂などが加えられます。無数の機会をくぐり抜けて、最後に混合物はソーセージ製造機から出てくるように無限に押し出されてきて、切り分けられ乾燥され、1000°Cで何時間も焼かれます。それから芯に強度と滑らかさを増すために、メキシコから来たキャンデリラワックスとパラフィンワックス、水素添加された天然脂を高温で混ぜたものが塗られます。
 わたくしの外側には6層のラッカーが塗られます。ラッカーをつくっている人たちを知っていますか? トウゴマの生産者や、そこから採れるヒマシ油の精製業者が含まれているとは、だれも知らないでしょう。でも、それは事実なのです。ラッカーの美しい黄色をつくりだす過程でさえも、数えきれないほどの人たちの技術が関わっているなんて! 
 ラベルを見てください。松ヤニと混ぜたカーボンブラックを熱を加えて薄い膜につけたものです。どうやって松ヤニをつくり、カーボンブラックとは、はて、何なのでしょう?
 わたくしについている金属、金環は真ちゅうです。スズや銅の炭鉱夫、そういった自然の産物から光り輝く真ちゅうの板をつくりだす技術をもった人たちのことを考えてください。金環の上のある黒いリングは黒ニッケルです。黒ニッケルとは何であり、そうやって加工されるのでしょう? 金環の中心には黒ニッケルがない理由をすべて話すには、何ページも必要です。
 そして、わたくしの一番の栄誉であり、取引ではみすぼらしく「つめもの」と呼ばれている、人間がその犯したミスを消すために使う部分があります。「ファクティス」と呼ばれるものが、字を消します。それは、オランダ領西インド諸島からのナタネ油を塩化硫黄で処理した、ゴムのようなものです。常識とは反対に、ゴムというのは膠着させる目的だけに使われるのです。それからまた、無数の加硫・促進剤があります。軽石、そして「つめもの」に色をつける顔料の硫化カドミウムはイタリアからやって来ます。

だれも知らない
 わたくしが前述した、鉛筆のつくり方をすべて知っている人は地球上にいないということに、異議を唱える人はいますか? 
 実際、何百万人もの人たちがわたくしをつくることに関わっていますが、彼らは他の人たちをほとんどまったく知らないのです。ここで、遥か彼方のブラジルのコーヒー豆を摘む人たちやどこかの生産農家と、わたくしの生産を関連付けようとするなんて行き過ぎだとおっしゃるかも知れません。それは、あまりに極端な見方だと。しかし、わたくしは自分の主張を擁護いたします。この何百万人もの人たちは、鉛筆会社の社長を含めて、各人はちっぽけで極微量のノウハウだけしか貢献していません。ノウハウという観点からすると、セイロン島の黒鉛炭鉱業者と、オレゴンの伐木業者の違いは、ノウハウのタイプでしかありません。炭鉱業者も伐木業者も互いになくてはならないものであり、それは工場で働く化学者や、原油の副産物としてパラフィンが採れる油田地帯の作業員も同じことです。
 ここに驚嘆すべき事実があります。油田地帯の労働者、化学者、黒鉛や粘土の鉱夫、船や汽車、トラックの作業員も生産者、鉛筆の小さな金属にギザをつける機械の作業員、社長の誰ひとりとして、鉛筆がほしいと思っているのではないのです。多分、どの一人よりも小学1年生のほうが鉛筆を欲しがっています。事実、この膨大な人たちの中には、鉛筆を見たこともなければ、使い方がわからない人もいます。彼らを動機づけるものは、鉛筆ではありません。おそらく、それは次のようなものです。彼らの一人ひとりは、その小さなノウハウを、彼が欲しがる、あるいは必要とする財やサービスと交換できると考えるのです。わたくし鉛筆は、そういったものかも知れないし、そうでないかも知れません。

マスターマインドは存在しない
 さらに驚愕すべき事実があります。それは、わたくしをこの世に送り出す無数の活動を強制的に統制し、あるいは命令するような誰か、つまりマスターマインドの不存在です。そういった人物の形跡はどこにも見当たりません。その代わり、「神の見えざる手」を見出されます。これこそが、わたくしが前述した神秘なのです。
 「神だけが樹をつくることができる」と言われてきました。どうして、私たちはこれにうなずくのでしょうか? それは私たちが樹をつくれないことを、よくわかっているからではないでしょうか? 事実、樹というものを説明できるでしょうか? 浅薄な言葉によるものを除けば、それもできないのです。人類のどういった精神が、樹の生涯を通じて、常に蒸散する分子の変化を記録したり、いわんや制御したりできるでしょうか? そういった偉業は本当に想像を超えたものです! 
 わたくし鉛筆は、木、亜鉛、銅、黒鉛、その他の奇跡が複雑に集まったものです。しかし、これら自然の中に発現する奇跡には、さらに素晴らしい奇跡が加わっているのです。それは人間の創造的なエネルギーの集合です。数百万ものちっぽけなノウハウが、人々の必要や欲望に応じて、人間的なマスターマインドなしに、自然に、自発的に集合しているのです。神だけが樹をつくれるのですから、わたくしは神だけがわたくしを作れると主張します。人間には、樹をつくりだす分子を集めることができないように、わたくしをつくりだす種のこれらの何百万ものノウハウを統括することはできないのです。
 「もしわたくしが象徴している奇跡性について意識することができるなら、不幸にも人類が失いつつある自由を救う手助けになってもらえるでしょう」と書いたとき、わたくしが意味していたのはこのことだったのです。なぜなら、もし、これらのノウハウが人類の必要や要求に応じて自然に、そうです、自動的に、創造的で生産的なパターンに配置されるとしましょう。つまり、政府その他の強制的なマスターマインドなしにです。その時我われは、自由に対する絶対的に不可欠な要素を持つことになります。それは自由な人びとに対する信頼です。この信頼なしに自由は不可能なのです。
 一旦、政府が、例えば郵便配達のような創造的な活動を独占すると、ほとんどの人たちは、郵便配達が自由な人たちによって効率的になされることは不可能だと信じるようになります。その理由はこうです。人びとは、誰ひとりとして自分自身が、郵便配達に必要なすべてを知ってはいないことをわかっています。人びとはまた、他人もまた知ってはいないこともわかっています。これらの仮定は正しいものです。鉛筆をつくるノウハウを持っている個人がいないのと同じように、一国の郵便配達を実行するための十分なノウハウを持っている個人などいません。ここで、自由な人たちへの信頼がない場合、― 数百万ものちっぽけなノウハウがこの必要を満たすために自然に、奇跡的に集まって協力することを意識しなかった場合 ―、我われは、郵便は政府の「マスターマインド」によってしか配達されないという誤った結論にたどり着かざるをえないのです。

豊富にある証拠
 もし、わたくし鉛筆が、自由な老若男女に成し遂げられる唯一の証拠であるなら、自由を信頼しない人たちも正当なことでしょう。しかしながら、証拠は豊富に存在しています。それは世の中のすべてであり、どの技術のことでもあります。郵便配達は、例えば自動車や計算機械、あるいはコンバインや製粉機、その他の数多くのものの製造に比べれば、非常に単純なことです。郵便配達ですって? おやまあ、この分野では、人びとが自由にできるなら、1秒以内に世界中に音声が届きます、出来事は動画で中継されて、あなたの家まで届きます、150人が4時間以内シアトルからボルティモアまでに運ばれます、天然ガスは、信じられない低価格で、補助金なしに、テキサスからあなたの牧場やニューヨークの溶鉱炉まで届けられます、2キロの原油は、ペルシア湾からアメリカ東海岸まで、世界の半分を経て、政府が向かいの建物に手紙を配達する料金よりも安い運賃で届けられるのです!
 ここでの教訓はこうです、創造的なエネルギーを制約しないでおきなさい。単に、社会をこの教訓と調和するように組織しなさい。社会の法的な方法によって、できるだけ障害を取り除かせなさい。これらの創造的なノウハウが自由に行き来することを許しなさい。自由な男女が、神の見えざる手に反応するだろうことを信頼しなさい。この信頼は確証されるでしょう。わたくし鉛筆は、一見単純なものではあります。しかし、わたくしの存在自体が、この信頼が、太陽や雨、ヒマラヤスギや良き地球と同じように、実用的なものであることの証拠なのです。


注:私の正式な名前は「モンゴル482」です。私の部品は、エバーハード・ファーバー・カンパニーで加工・組み立て・仕上げられています。
訳注: G・K・チェスタートンは、バーナード・ショーなどの「進歩主義者」たちと論争した20世紀初頭のイギリスの批評家



公と民

給食でもっともすばらしいと表彰されたという日野市の給食は1食当り940円もする。それだけあれば、なるほど理想的な給食が作れるだろうが、つくるべき食事の数が完全によめる給食の値段がこの値段というのは、それにかかっている人件費がどれだけかかっているかを反映している

トヨタよりも名古屋市のほうが賃金が高い

東京都の乳児保育には一人当たり年間580万円かかっているが、民間では380万円でできている。どっちにしても、20代、30代の女性の支払える額ではない

ーーー
いろいろありますね

名古屋市のほうが給料が良くて安定していると思って就職したら
20年くらいたって、トヨタのほうがずっと幸せだったとか気づいたらくやしいでしょうね
そうならないためにも名古屋市は必死になるわけだ

父親は500円でランチを食べる
子供はもっと安くできるはずのランチを無駄に940円支払って、計算の合わない部分は税金で補い
給食関係の職員さんたちに支払う
日野市のあたりは大工場があってある程度税収がある(というか、昔は、あった)

でもまあ、その職員さんたちが何かでそのお金を支払って世の中は回るのだからそれでいいような気もするが

必死に掘る

お年寄りが増えます
若者が減ります

お年寄りは原則働きたくありません
年金を貰いたいです
税金とか福祉のお金とかは現役世代に負担して欲しいです

現役世代が2人で一人のお年寄りを支えるとすると
1.5倍の給料を稼がないといけない
0.5はお年寄りに、1.0は自分に

どうしてそんなことが可能かといえばイノベーションだ
技術革新である
労働生産性を上げるという

しかしその技術革新は日本人以外にはできないものにしないといけない
他所の国の人たちは自分の分1.0だけ稼げばいいのだから
技術を手に入れてしまうと
日本の1.5に対して1.0で売ってしまう

結果として1.5倍稼ぐことは難しい
ならば法律を変えて、お年寄りも自分の稼いだものだけでやりくりしなさいと決めようとすると
多数決ではもちろんお年寄りのほうが強いので
そんな法律は出来ない
むしろ現役世代は2.0の働きをして1.0だけ受け取りなさいという法律ならばすぐにでも成立する

技術革新はグローバルなのに
人口構成の老齢化はローカルだから困る

とりあえず輸出できるような地下資源でも見つけるしかない
油田とか天然ガスとか
必死に掘る

ーーー
移民を受け入れるとして
移民の皆さんは日本のお年寄りのために負担金を出してくれるのだろうか




鎖国

江戸時代に鎖国になっていたのだが
新しい科学や医学は結局オランダ語などを学んだ人が日本に移入した

長崎でカステラを食べながら

当時、鎖国していたので
鎖国を合理的に破ることで大きな利益が生まれた

越後屋はお代官とご禁制の品を抜荷しているのではなかったか

日常会話は知能に関係なく誰でも話しているものなのだから
「鎖国」をやめればいいだけの話だ

国家が許可した一部の人にだけ鎖国破りを許す
そして異国のありがたい高級文化の紹介屋になってもらう

国家権力というものがそういうところに浪費されているようにみえてならないが
私はもう人生を終わっているのでどうでもいい感じがする

国家の基本設計をプランして実行する人たちは
引退した人たちではなくてまさに現役の人たちであるから
国家のプランは、そのまま、自分たちの人生のプランでもある
少しだけ歪むのもやむを得ない

日本語の環境そのものが「鎖国」
そして今後、日本人は半減、外国語としての日本語を話す人が溢れるのだろう
少ない言葉でツーカーとはいかない



震災にあたり主体はいかに行動するのか

震災にあたり私はどう行動すれば良いのか
目指す方向はどちらか

この災害にあたり大胆に行動を起こす人々がいる

何かをしないではいられない
その気持を否定することはできない
直接行動派である

しかしまた一方で早い段階から長期の最も有効で効率的なプランを検討している人もいる
間接長期計画派である

プランする人と実行する人がいる
それはそういうものだろう

相互変換不可能な二つまたは複数の信号系

二つの脳を置いて
内部の信号系を分析する

二つの脳で相互変換可能であるか不可能であるか
と問題を設定することができないか

こちらの脳のこの物質のこの変化に
そちらの脳のその物質のその変化が対応する
というように、さらに定量的に

変換可能であれば
お互いに読み替える技法を習得すればいいだけなので
時間が経てばミスコミュニケーションの問題はなくなる

ーー
相互変換不可能であるのにもかかわらず
矛盾なく結合する場合もある

むしろ異質であるからコンフリクトなく結合することもある

ーー
写像の考えなどがそれだろう

もう一歩考えると
像のレベルではなくてメタ像のレベルなのだろう

音そのものではなくて音の相互のつながりがメロディを形成するように

色と形そのものではなくではなく
ゲシュタルトが印象を形成する

従って脳の物質や構造ではなくて
「メタ構造が相互変換可能であるか」と表現できるのだろう

音と音とは対応していなくても
メロディとして相互変換できることはありそうである

ーー
人間の二つの脳において
相互に変換不可能な二つの系を想定できるものか

あるいはそうではなくて
どんな場合にも、脳である限りにおいて、変換可能であり、説明可能なものであるのか

たとえば、この場合には対応物がないけれども、何が起こっているかは理解できる、とか

ーー
脳が脳を説明するとか理解するとかの問題になると
説明とか理解とは何かという問題にすり替わるので困るのだけれど











比較不可能なものを比較

世の中は不条理なもので
ときどき比較不可能なものを比較している
そしてそれが習慣になっている

なたはあなたの一番いい時を無駄に過ごしてはならない

あなたはあなたの一番いい時を無駄に過ごしてはならない

のだめカンタービレ

疲れはてて横になってテレビをつけていたら
映画「のだめカンタービレ」

結構いい演奏かも

思い出すと若い頃はこのような音楽ばかり聞いていたと思う
パリの情景とロマン派音楽がぴったり

それにしても
原作はマンガ
クラシック音楽がテーマなのに
不思議なことだ

ーー
なんでこんなに疲れているのか
全く意味が分からない

匂いでセレクト

シンデレラの話でガラスの靴でセレクトすることになっている

彼の場合は匂いでセレクトされたようである


昼くらいに激しい横なぐりの雨 だめ

昼くらいに激しい横なぐりの雨
ビル街だからなのだろうか
日本の気候が変化しているのだろうか
せっかくのお休みなのに
お散歩もだめ

ーー
人になにか言われるときに
「だめ」と言われるととっても絶望的になる

「だめ」といわないで
それよりも「こっちをして」と肯定形で言えばいいのにと思う

三越に行っちゃダメ
と言わないで
高島屋に行ったほうがいいよ
と言ってもらったほうがいい

食べちゃだめといわれると
食べることに意識が集中してしまう

風呂掃除しようと言われたほうがいい

ーー
AさせたいならBさせろ というのだけれど

ーー
と書いている間に
一時弱くなっていた雨が急に勢いを盛り返す

なんだか翻弄される感覚

スコール ってこんな感じかな











対人関係療法の変化と不和

病気の次元の話ではなくても
世の中の色々を
対人関係の変化と不和で整理していくと
なかなか
シンプルで良いように思う

それにしても不和と変化の多いこと
みんなつまずいている

だいたいはミスコミュニケーションが根底にある

大震災にあたり無力感と焦燥感の両極がある

大震災にあたり無力感と焦燥感の両極があるのだろうと思う

うつと躁の両極に対応する


一日一日が砂粒のように過ぎてゆく

これ以上年をとったら
文章を書くのも読むのも不自由になるだろうなと
思う

だから少し焦る気持ちはあるのだが
どうにもならない
一日一日が砂粒のように過ぎてゆく


金曜日の午後

金曜日の午後が地震だったな
といまも思っている

そのくらいみんなに共有される体験になった

あの頃どこで何をしていた?と話す日が来る

恐竜の骨

恐竜の骨

ほんのちょっぴりで
何類とか体重、体長、想像図まで分かってしまう

いろんな人がいろんな仕事をしているものだと思う

予測する原理としては理解できるのだが想像図があやしい

優しい気持ちがみんなにあるのに

優しい気持ちがみんなにあるのに

足し算するとゼロになっていたりして

困った世の中である

ーー
みんなに自分の都合がある

ーー
どうしてミスコミュニケーションが起こってしまうのだろう

水戸っぽ 怒りっぽい・理屈っぽい・骨っぽい

水戸っぽ
水戸で生まれ育った人の気質

水戸の3ぽいと呼ばれ、
怒りっぽい・理屈っぽい・骨っぽい
という3つの気質

んーー、いるな、たしかに

何度も何度も余震

何度も何度も余震である
頑丈な家も何度も揺さぶられているうちに
ひびも入りそうな気がする

こんなに何度も持続して地震があることは想定済みなのだろうか
徐々に崩壊する部分があるはずである

手紙、携帯電話、メールの作法

携帯電話やメールで誤解が多い
ミスコミュニケーション多発

人間のコミュニケーションシステムはそのように出来ていないのだから
しかたがないのだけれど

なんとかお作法を定着させていきたいものだと思う

誤解で困っている人は多いと思う

躁うつ病を告白したキャサリン・ゼタ・ジョーンズ

[シネマトゥデイ映画ニュース] 先日躁うつ病(双極性感情障害)であることを明かしたキャサリン・ゼタ・ジョーンズが、コネチカット州のシルバーヒル病院から退院し、早くも新作映画撮影の現場に復帰した。

 ジェラルド・バトラー、ジェシカ・ビールと共演する新作コメディー映画『プレイング・ザ・フィールド(原題)/Playing the Field』の撮影地であるルイジアナに、5日間の短期入院を終えて戻ったキャサリンは、役柄であるゴージャスな女性の衣装を身に着けると、終始以前と変わらない笑顔を見せていたとピープル誌は伝えている。

 キャサリンは同誌のインタビューで胸中を明かした際に、「もしわたしの告白が同じ病気を患う一人にでも、助けを求めようと行動することを勇気づけられたなら、意味があったと思います。黙って苦しんでいる必要はなく、助けを求めることを恥じる必要もないのですから」と語っていた。治療が成功し回復したキャサリンは、新作のオファーも変わらずに舞い込み続けていて、ミュージカル映画『ロック・オブ・エイジズ(原題)/Rock of Ages』にも出演が決定したと、デッドライン・ニューヨークが報じている。本作にはトム・クルーズも出演が決定していて、スター俳優たちの共演が楽しみなところ。気になるキャサリンの役柄はロサンゼルス州知事の妻で、映画『シカゴ』以来の歌声とダンスに期待が高まる。


精通する

精が通するとは

省略系/構成系 短詩形文学を支える背景共通認識

秋になり、わずかではあるが風流の儀もある。
茶の席があり、碗には和歌が添えられていて、あかねさす紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖振る とある。他意はないと見た。ただ分かりやすい一首を添えただけだろうと思った。
このような席では物合(ものあわせ)の習慣もある。花や小箱の優劣を競い、その際にしかるべき和歌を添えたものらしい。やがて歌の優劣を決する歌合(うたあわせ)が発達した。紀貫之の頃から始まり、定家、後鳥羽院などの、新古今集あたりで満開となる。
さて、定家、後鳥羽院周辺でさかんに行われた歌合では、歌の優劣の規則が少しずつ明らかにされる。
このあたりは英国憲法のようだ。日本の憲法は条文が先にあるが、英国は憲法の条文はない。しかし、すべての国内法に優先する法として英国憲法は条文はないままに存在している。
判者は時に露骨に政治的に、時に衒学的に、しかし総体してはまさに日本語の本質と日本語の美意識の細部を解き明かしている。
そもそも二首の和歌があったとして、その優劣を決することなど出来る物だろうか。それぞれによいとしか言えないものだろう。二人の小学二年生がいて、どちらが「いい子」かと比較することなど出来ない。しかし身長を比較するのなら、比較的簡単明瞭に可能である。
定家・後鳥羽院周辺はそのあたりの「物差し」を提出したのである。「価値観」である。そしてその価値感は日本語の骨格として受け継がれ、丸谷才一「新々百人一首」や堀田善衞「定家名月記私抄」などを手に取るにあたり、改めて知らされるところとなる。
さて、そこまではとりたてて語るほどのこともない。その先のことである。たとえば、小学生の俳句がある。金子兜太・あらきみほ『小学生の俳句歳時記』2001 蝸牛新社。
座禅会むねの中までせみの声(小6男)
ぶらんこを一人でこいでいる残暑(小6男)
春風にやめた先生のかおりする(小4女)
つりばしがゆれてわたしはチョウになる(小3女)
星を見る目から涼しくなってくる(小4男)
あじさいの庭まで泣きにいきました(小6女)
くりごはんおしゃべりまぜて食べている(小3女)
ぼんおどり大好きな子のあとにつく(小6女)
風鈴に風がことばをおしえてる(小4女)
改めて感動する。大人の俳人の困惑も思い浮かぶ。
日本文学の底流を知らず、アララギも知らず、軍靴の音も知らず、何かの偶然さえあれば、小学生もこの程度の文芸が可能であるということ。それが私にとっては謎だった。小学5年生にドストエフスキーを書いてみろとは、言えるわけがない。しかし俳句ならここまでできてしまうのである。
ここに日本文学美意識の発露があると見る。

そもそも文学には省略系と構成系の二者を考えることが出来る。省略系は、「相手にも分かっていることはわざわざ語らず省略して、相手の心内に、ある印象が結実する必要最低限のものを提示すればよい」主義であると言えるだろう。短歌、俳句がそうである。省略するからには、背景に広がる共通部分は大きいと考えざるを得ない。特に短歌も、題詠で縛りをかけるとなるとなおさらである。ルールを多くすれば、共通認識は増える。
一方、構成系は、必要最低限の共通認識しか要求しない。そしてそこから一つ一つ規定し構成し、世界を作る。これは現代ではテレビゲームの世界とかアニメの世界とかで発達しているだろうと思う。だかそれらは日本だけではなく世界の子供達の心をつかむ。
省略系と構成系の二種を対比したが、逆に考えれば、どれだけの共通知識や共通感性を要求しているかということになる。省略系において、共通知識・感性があまりにも広い場合、かすかな刺激で感動に導くことができる。極論を言えば、偶然の壁のシミでもよいのだ。現代芸術は、そのようにして、大きな領域の共通認識を要求していることがある。前提条件があれこれとやかましいものがあるのはそのためである。いろいろな解説を読まなければ感動できないものまである。聞くところによれば、これには実作者でさえ辟易しているのであるが、どうしようもない。

さて次に、共通認識のレベルを見ていこう。
最も共通認識を要求していないテレビゲームなどの場合、ただ人間であり、脳であれば、それ以上は要求していないように思われる。
次には万葉集のレベルであり、ある程度、男女や親子の愛を共通認識にしているものと思われる。どの言語にもある基本的な要素がそろってくる。ソシュールの普遍文法のようなもの。
古今集になると日本語独自の美意識が芽生えてくる。
新古今集にいたり、日本語独自の美意識は明確になる。二つの和歌を並べられて、優劣を決することさえ出来る。
本来、和歌に優劣などあるはずはない。それが決まるのは、物差しが決まったからである。たとえば、すべての和歌は富士山のどこかに位置するのである。東を向いているもの、西を向いているもの、色々あるが、標高で比較して、優劣を決する。そのような価値観が確立したのが定家・後鳥羽院の頃であり、我々の現在の日本文化は、基本中核をそこに置いているのだと思う。
さらに最近の落書きに似た作品は、他人に共感されることを目指していないようだ。ただ仲間内の言葉で語っているだけのようだ。共通の認識背景のない人に省略形芸術は不可能だろう。理解の隔絶した人間に対しては、構成系の芸術により、一つ一つを厳密に圧倒的に納得させていかなければならない。新しい美意識を表現する場合には、古い日本語に寄りかかっていてはいけないのだと思う。逆に言えば、小学生の俳句が新鮮であったとしても、それは旧来の日本語が内蔵していたものでしかない。正確に言えば、作ったのではなく、内蔵していたものを発見しただけである。だから評論家にも分かってもらえる。この範囲を超えた作品については、批評家を拒絶するだろう。批評家は古い言葉を語り、古い社会で生計を立てているからだ。

並べてみれば、
基礎背景:脳→一般言語(ソシュール的)→日本語(通事的)→日本語(今日のこの刹那)

この系列がまずある。
省略系で最もすばらしいのは、脳の仕組みに肉薄する作品だ。次には普遍文法に依存するもので、この範囲のものは翻訳さえ可能である。次には通事的日本語に依存するものだ。今日刹那の日本語に依存する作品はほとんど意味がないとの意見もあるだろう。
構成系は脳だけを要求していて、単純に、食欲、性欲、征服欲、所有欲、安全欲求などを共有物として要求しているだけだろう。そして背景とする文化としては、過去のゲームの名作などがあるのだろう。次第に短歌と相似形の文化になるのかもしれない。

考えはそこまで及び、時間になった。礼儀なので、
むらさきのにほへる妹を憎くあらば 人妻ゆゑに我れ恋ひめやも
を書いておいてきた。この歌をどのレベルのメッセージとして受け取るのか、さまざまに要素はあり、それが文化の深さなのかとも思う。外は雨だった。

異常であることの不思議さ

異常であることを維持していることは実は不思議である

自分は異常だと思ったら
訂正可能なはずである

それを訂正しないのは異常を自覚しないということなのか
よく分からない

例えばの話、座標軸なんていう喩えがよく出されるので使うとして
普通は直角に交わるX軸とY軸であるが
それが60度くらいになっているとして
世間の考え方とか感じ方とは異なったものになる

もちろんそれではやや不自由であるから
訂正できる人は訂正てしているはず

不自由を自覚しないなら訂正はしないだろう

ーーー
不自由を自覚しないで訂正しないのはパラノイアである

不自由を自覚して訂正するのは正常機能

不自由を自覚しているのに訂正できないのはどうしてなのか、それが問題
神経症はそのレベルでたとえば各種の不安性障害がここに分類される

たとえば自分が音痴であることを自覚しているならば訂正できるだろうとか
しかし実際には難しい

たとえば絵が下手な人
自分の絵が下手であることも、他人の絵が下手であることも、分かっている
分かっているのに自分が描く瞬間には訂正できないとはどういうことか
しかし絵がうまいことはどちらかと言えば特殊な才能である

音痴と下手な絵と神経症は似たようなメカニズムかもしれない

ーーー
異常であることを維持するのはじつは難しい
正常に戻してしまったほうが楽なのだ

なぜそれをしないか
多くは異常を自覚しないからだと言われる
たしかに
自覚すれば何とかなりそうでもある

60度の座標軸であるとして、それを直交座標に読み替えることができるはずなのである
90度にしなくてもいいから
外の世界では90度なのだと考えて変換すればそれでいいのだ

それができない

だから60度であることは異常の本質ではない
訂正できないことが本質である

歌が下手なことも
絵が下手なことも
自分の筋肉からの出力をを訂正できないから
下手なままである

ーーー
たとえば
夫婦で一対一で向き合うと
どちらが60度でどちらが90度であるか
完全に相対的になる

パラノイアに対しての多くの努力が無に帰するのはここに原因がある
パラノイアは多数決の原理を拒む

ーーー
すごく疲れる vs 休めない
すごく食べたい vs 絶対太りたくない

ーーー
異常であることを自覚しつつ
なおも異常のままでいること
なぜそんなことができるのか
メタ異常である

ーーー
座標軸が90度か60度かというならば
変換可能なわけだから
翻訳すればいいだけだ
それならば異常であるとも言えないだろう

どこか翻訳不可能な部分があるので
異常なのだろうと思う









信じられないくらいの速さで歳をとってしまった

信じられないくらいの速さで歳をとってしまった
こんなはずではなかったと思うことしきりである

30歳から後の人生は一瞬だった

清さんという人がいて話をしたら
清少納言の子孫だと言っていた
確かめようも何もないが
まあ、誰かはそうなのかもしれない

試しに
春は、夜は、とか聞いてみたが
はかばかしくない

いとをかし、である

いまからでも心を入れ替えて
有意義な人生にしようと思うけれど
そこから先、別段何も考えつかない

人の話によれば
若い世代は、これから先、働いて収入を増やしても、
収入の増加よりも介護保険料など、諸費用の負担が大きくなるので
実質所得は伸びないのだとか

「思ったより伸びない」という程度の話だろうと話したのだが
もっと深刻なようだった
かわいそうである
しかし老人も生きたいと思っている







老いてからの健康

私の場合は若い頃も中年の頃も体に何かの過剰があったようで
不健康であった
年老いてから過剰はなくなり
落ち着いてきたように感じられる

長く生きたせいというのか何というのか
1000年に一度の大地震と大津波もテレビで見ているし
余震を経験し続けている
原発事故も毎日見続けている
昔は核爆発実験を平気で行っていたものだ

体に油がなくなるので
オリーブオイルを補給して
ワセリンを塗っている

巨人の澤村のプロ一勝目を目撃できたし
東日本大震災のあとの躁状態も経験し観察できている

一日PCのモニターを見続けているような生活で
これ自体は体に悪い
しかし一面では何も考えずにいられるので気楽でもある

キャンディーズのなんとかという人が亡くなったそうだ
自分よりあとに生まれた人が自分より先に死んでいくことには
いつも違和感がある

体がくさいので自分でも嫌になる





いつも最悪の場合を想定して対策を考えている

確実さを求める人はいつも最悪の場合を想定して対策を考えている
だから非常に疲れる



中学受験

後輩の子どもが今度は中学受験だという
たしか以前話を聞いたときは小学受験だったから
6年もたってしまったわけだ

6年経っても全く成長していない自分を恥じる

マインドフルネス

表現の方法は色々とあると思うのだが

第一世界モデルと第二世界モデルで言えば
第二世界モデルが停止していれば
それは自動操縦である

第二世界モデルがフル回転していて
第一世界モデルとぴったり一致していると
プロ野球選手が「夢中で飛びついたらミットに球が入っていました」というようなものだろう

このぴったり一致が、私の場合の
マインドフルネス

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