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社会保障・税一体改革のための国民皆看護師制度案

http://www.youtube.com/watch?v=1ISKY6gmd-8&feature=related
などで「東京の夜は七時」「待ち合わせのお店はもう潰れてなかった」など聞いていたら
後輩がつぶやく
若い職員は全員、いや、すべての職員は看護師になればいい

看護師を採用するのではなくて
現在の職員を看護師にするというのだ

考えてみれば国民皆看護師がいいと気がついた

ーーー
いま社会保障・税一体改革などと言われているが、要するに単純な増税のことだ
税金を徴収してしまえばそれが社会保障のために徴収された金かどうかなんて
印が付いているわけではないから分からない
何にでも使うだろう

社会保障のためというのなら年金、健康保険、介護保険などの負担額を素直に上げればいいだけだ
増税といえば貧困層は反対するに決まっている。消費税増税はなおさら抵抗が予想される。
そこで社会保障・福祉のためと言っておく。とってしまえばあとは使い道なんて知るはずがない。
税金を取れないとなれば、極めて素直に、「約束通り、社会保障費を打ち切りいたします」と言えるわけだ
そうなると貧困層は怖くなって増税に賛成するだろう。そして自分で自分の首を締める。

ーーー
ここで本当に社会保障を充実させるための社会保障・税の一体改革を考える。
税金はなぜか個人ではなく『世帯』というものが単位になって計算されている。
そこで提案は
各世帯最低一人の看護師を出して実際に稼動させること。徴兵制と同じである。防人の歌である。
それができない場合は各世帯500万円の社会保障割増税を「国税」として支払う。

ここで「税」というのが大切である。いずれも強制的徴収とはいえ、一般に国税、地方税と比較して
年金や健康保険、介護保険は徴収が甘い。だから「国税」にして、税務署とマルサがかかわり、罰則は
脱税と同じ重い刑罰である。政治家を贈収賄で立件しようとしてどうしてもできないとき、
脱税で立件するのが常である。
各界有名人のいろいろな疑惑についても確定しきれないときは脱税で責める。国税は強いのだ。
脱税もできないときは痴漢冤罪を使う。

そこでその最強の現金徴収能力を活用し、その金を社会保障に回す仕組みを考える。
それが
各世帯から最低一人看護師を労働力として提供し、できない場合は500万円を国税に収めるという案である。
税金の申告の時に、世帯で誰がどの施設で看護師として働いたかを証明する書類をつける。
それを国税が審査する。違反があれば脱税と同じ重罪である。
看護は国民の神聖な義務であると法律に明記する。

ーーー
看護師として働くにはまず教育が必要である。中学を終了した段階で特別な才能が認められた人を除き、
全員が看護師になる教育を受ける。自動車教習所と同じ程度に遍在する教育施設になる。
自動車免許と同じく、更新制にして、常に勉強が必要な制度にする。

一家から看護師が出ないと500万円支払わなければならないので死活問題である。
家庭教育に熱が入る。家族は全員で子どもに勉強しろとやかましく言うようになる。
競争試験ではないからみんなで合格するように助けあう。古代ギリシャで戦争があったとか
そんな話ではなくて、どの咳は検査が必要、どの咳は安静と栄養でいいとか見分ける知識である。
みんなが勉強していいに決まっている。

看護師が誕生すると大切な人間であるからすぐにでも結婚したいとプロポーズされる
看護師は年収+500万円の価値があるのだ
子どもがすぐに出来て、出産休暇・育児休暇を有効に使い、出生数は急激に回復する
少子高齢化が解消される
一人の看護師にたくさんの人間が同一世帯として登録したほうがよいので核家族は廃れて大家族制になる
何しろ世帯の人数が多いので育児の手もたくさんある

家族の誰かが軽い病気になったときに看護師がいれば軽症のうちにさっさと処置してもらえる
意味もないのに病院にかかって無駄な検査をしてもらいたがる人はいなくなる
自然と家族の絆は強くなる
ラブとピースと絆である

看護師免許のある高齢者は、実際に働いていないと、500万円取られるので
家族はみんな、「働いてください」とプレッシャーを掛けるようになる
だから定年もなくなり、高齢になっても働き続ける
高齢者の勤労意欲を維持できる
働けば所得税は伸びる
家族に感謝されるので高齢者が元気で働くようになる

施設の看護師ポストは取り合いになる
日本語の話せない人に看護や介護してもらう必要はなくなる

施設で不祥事を起こしたりして解雇になったりしたら500万円の「税」支払いが待っているので
モラルが向上する

ーーー
土台、増税して、福祉の予算を確保したとして、働く人がいないと福祉は実現できない
現在の日本では少子化と低学力化で
人を確保するのが大変に困難だ

人材養成と確保を確実なものとするために国税・マルサ・脱税という強力組織を使う、
という回りくどい作戦である

ーーー
そのようにして看護師がどんどん増えるとどうなるか
当然、供給過多で人件費が安くなる
結局社会保障関係費が大幅に安くなるのである

その一方で500万円を税として支払う世帯も多いから税収も増える
所得税、住民税、消費税、固定資産税、相続税、印税、自動車税などとは全く別のカテゴリーである
全く新しい財源になるのだ

これならばかなり筋の良い一体改革案ではないだろうか?










犬のしつけ 分割した要素ごとに犬が「そうせざるを得ない」環境を整える

犬のしつけをするときには、問題をなるべく小さくすることが大事なのだそうだ。「持ってこい」という動作一つ教えるにしても、何かものを投げて、それを拾って戻ってくるという一連の動作は犬が学ぶには大きすぎるから、まずはそれを「ものを投げたら追いかける」「落ちたものを拾う」「拾ったものを持って帰ってくる」といった要素に分ける。分割した要素ごとに、今度は犬が「そうせざるを得ない」環境を整えて、その動作を教える。要素要素の動作が完成したら、最後にそれをつなげることで、ようやく「持ってこい」が学べる。そうした一連の要素記述を、訓練士の人たちは「スクリプト」と呼ぶんだという。

という紹介があった。なるほど。

治療法の効果研究

こんな感じで研究費が出ます


完全な randomised controlled trial は倫理的にちっょと抵抗があるという場合でも
この無治療→治療→無治療(追跡)、A-B-A方式くらいならばできないでもない

多施設になるとなんとなくよい

倫理委員会の承認とインフォームドコンセントの手続きを踏む

特殊療法開始前(6ヶ月前または初診時)
治療開始時
治療終結時
3ヶ月追跡
12ヶ月追跡
で自記式と評定者評定式による数字を取る

スケールの使い方など参考になる

スケールについてはアメリカと同じものを使えば考察が容易になる

すでに治療効果が確認されている治療法と比較対象試験をしても良いが
その方法ではたぶん劣らない有効性が検証出来れば成功だろう

何もしないと、いつまでも治りませんと証明しないとうまくないのだが
それは倫理的に積極的にはデザインできない

何かの偶然で、たとえば引越ししたとか、通院費用がなくなったとか、怪我をして動けなくなったとか
いろいろな事例を集めれば比較群にできなくもないが
比較群と同等の集団に対してオペレーションしないといけない

いろいろと難点はあるだろうがとりあえずこれで研究費でていますという話

ーーーーー

こちらは Dynamic Interpersonal Therapy; DIT についての
a prelude to a future randomized controlled trial という位置づけ
それで充分だと思う

ほかには
 interpersonal therapy-group format なんていう話題もある。集団認知行動療法とか集団対人関係療法はいろいろな理由で施行しやすい

dual-focused vs. single-focused individual therapy for personality disorders and substance dependence 
なんていう話題もある

Residential cognitive therapy versus residential interpersonal therapy for social phobia: a randomized clinical trial
という論文もあり

 psychodynamic-interpersonal therapy (PIT) という表現も見える

Metacognitive interpersonal therapy という言い方もある。これなどはIPTのマインドフルネスバージョン

Automonous and controlled motivation and interpersonal therapy for depression:moderating role of recurrent depression.
という論文ではmotivationが話題

ーーー
たとえば、ご先祖に感謝しなさいという、therapy があったとして それについて検証することもできるわけで たぶん効果はあるのだろう という意見を聞いた


うつ状態の二つの起源

精神分析系ではうつ状態の説明をまず喪失体験とか喪の仕事(グリーフ・ワーク)とか
そのあたりから考えていて
肉親の死亡、パートナーとの死別、ペットロス、失職、などの、大切な人の存在や繋がりを失う経験との連続でとらえている

抑うつポジションとかそんな話に展開してゆく

ーーー
ドイツ生物学的精神医学では躁うつ病、うつ病、統合失調症、てんかん、これら精神病グループと
神経症グループに分類されて、フロイトが主に関わったのは神経症グループである

精神病としてうつ病を見立てる場合にはやはり躁うつ病や躁状態との関係が第一であり
その場合には躁状態がもたらす慢性持続性の疲労による、細胞の活動停止としてうつ病を捉える方法があると
私は思っている
それがDAM説である

ーーー
では精神分析では躁状態とうつ状態の関係をどう捉えているかといえば
病態水準としてはうつ状態、躁状態、妄想状態というように病態が重篤になる

なぜ躁状態とうつ状態が交代するのかの説明は少し弱いように思う

発達の系列として並べられ
病態水準として並べられるが
スイッチングに関しては弱い

ーーー
とても大きな心理的ショックの場合、まず仮死状態のような、抑うつ状態がみられる
動物が死んだふりをするような場合である

それも一種のうつ状態と認定はできるだろう

そしてそのあと、現実を否認しようとしたり、離人症状を呈したりする

さらにその後に、他責的になってみたり攻撃的になったりする
このあたりの反転については、どのように説明されるのか興味深いが
屁理屈以上の説得力のある説明があるだろうか

個人的な説としては
精神病的レベルのメカニズムで現実を否認し
神経症的レベルのメカニズムで内面の認識を否認する
そのあとで外部現実と心理現実を受容する
という時間系列になっていると思うが
たぶんそれは
外部現実を否認するには社会の中では困難であるというだけだろう
否認できるならどちらでもいいのだろうと思う

ーーー
その時期になってにわかに他人を責めて攻撃し続けるのは
ひとつは攻撃性というものが元々大量にあって
それが自分に向かっていると抑うつで
他人に向かうと他責と攻撃になるというのだけれど
では、なぜ、その向きにだけ向かうのか、うまく説明できるだろうか

この変化と使用する防衛機制の変化はぴったり一致していないように思う
自責は内面のことで
他責は外部への判断だとすれば
時系列としては他責がまずあり、次に自責が来てもおかしくないように思う
しかし現実はそうでもない

ーーー
しかしながらここで示唆されているのは
その人はもともと弱力性ではなかったということだ
強力性または精力性の人間であって
その人が大きな心理的ショックに出会った場合に
まず細胞機能停止で反応するはずはないのである

強力性の人間がショックで不快な体験をしたときに
当然精力性の反応を示すのだと思う
それが仮死状態とかうつ状態とかに見えているとしたら
見る方の判定方法が拙劣だということになるだろう

充分に精力性の反応をしているのであって
自責的であってもその大きさは次に来る他責を予定しており、そのために大きく自責しているかのようである

その証拠に自責を省略して他責に至る人は多いが
自責にのみとどまり他責に至らない精力性の人間というものはないと思う
(ここでは循環的定義にならないように注意したいが)

ーーー
そこで仮説は
喪失反応の時に「がっかりしている」のは
神経細胞が最大限に反応しているのだと考えることである
つまりその時期は躁状態である

そして、最大限に反応するから、その反動として、細胞の活動停止が来る、それがうつ状態である

喪失反応は正常反応に属する
そのあと、躁状態になり、さらにうつ状態になるのは病気である

喪失の重さを勘違いするのは現実把握のずれという、別の病気である
こちらのほうが病態としては深いと一般に言われる

ーーー
喪失体験の時にも、常識に反して、まず躁状態になり、つぎにうつ状態になる
だから病気になるのである
そうでなければ正常範囲の悲しみである
こう考えると、喪失体験をDAM理論で解釈できる

manie細胞が疲労しきってしまい活動停止するほどの過活動状態を経験している
そのあと活動停止となりうつ状態に至る

ーーー
がっかりして泣いているとき実は躁状態である
そう考えてつじつまの合う例は結構あると思う

泣いてさっぱりするという人もいるが
泣いているときは躁状態なのだと思う

ーーーーー
この二つのうつの起源が昭和のメランコリー型うつ病と
平成の 新型うつ病の違いだと思う

昭和型うつ病と平成型うつ病といってもいいくらいだと思う






情報過多時代に

情報の多すぎる時代に何を信じていいのか迷うのだろう

情報産業はお金になることを語るらしい

真実をより分けて知るのは大変むつかしいのだろう

ミスが起こらない仕事

やたらと、仕事上でのミスが多くて。
なにか、対策ないですかねぇ。

んー、ミスが起こらない仕事を選んだらどうですか。

ミスが起こらない仕事って、あるんですか?! いいなぁ。

んー、それなら、ミスのバレない仕事でもいいです。

なんでしょう。考えてみます。
何か思いついたら教えてください。

ミスがバレにくい仕事って
大企業の管理職ということじゃないですかね。

判断が責められることはほとんどないですね
責められるのは緊急時なのにゴルフ場にいたとかそんなことだけ

あとミスが起こらない仕事として有名なのは法務大臣

法相とはいいですね。二つ覚えておけばいいんですから。 
『個別の事案についてはお答えを差し控えます』と。これはいい 
文句ですよ。これを使う。これがいいんです。分からなかったら 
これを言う。これで、だいぶ切り抜けて参りましたけど、実際の 
問題なんですよ。しゃべれない。『法と証拠に基づいて、適切に 
やっております』。この二つなんですよ。まあ、何回使ったことか。 
使うたびに、野党からは責められ。政治家としての答えじゃないと 
さんざん怒られている。ただ、法相が法を犯してしゃべることは 
できないという当たり前の話。法を守って私は答弁している

とのこと
これを言わなければよかったのに
言ってしまったので
それがミスで辞任


不安性障害脳シャント説

パニック障害とか全般性不安障害、社交不安障害など
考えて見れば心臓がドキドキして赤面して汗が出て
という具合で
脳貧血とは全く逆で
首から上の血流はとても増加していると思う

血流が増加していれば脳はよく働いているはずで
最近の脳画像技術者の言い分だと
頭が冴えることになる

しかし現実には頭が真っ白で何も考えられず
不安でしどろもどろである

首から上の血流量が増えているな~どくどく頭に血が上がってるなぁ~
どくどくだ!
と、マインドフルする

でもいい考えが出ないのはどうしてだろう

指揮者のいないオーケストラ
指揮者が出てくる前に音合せしている感じ
それぞれの部分はとてもいい音を出しているのだけれど
全体としては混乱して不安

どくどく血が流れているのに
なぜ指揮者は引っ込んでいるんだろう

んーー、なぜだろう

ーーー
危機のスイッチが入っていると
脳血流は古い回路に優先的に流れる
それは脳の構造からも言えそうである

二階建ての建物の水道管のようなもので
一階部分の水道管のほうが太く出来ている

一階で蛇口全開にして水を沢山使ってしまうと
二階では水の出が悪くなる

ちょうどシャント回路が働くように
前頭前野まで血液は回らずに
中脳とか被蓋のあたりにたくさん血液が流れてそのまま静脈に流れこむ

その状態では高級な精神活動はできない
逆に本能的な回路は働いている

その状態では、進化で鍛えられた古い安定した回路が働くので
生存の確率はほどほどに高くなる

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不安性障害脳シャント説という

新しい回路の部分に指揮者は住んでいるので
古い回路の部分の血流を少し減らさないと
うまく働かない

これは食欲、性欲などの下位欲求を制御したときのほうが
上位の高級回路は働きが良くなる感じがすることに一致している

これは下位欲求を抑制しているのではなくて
オーケストラのように制御しているとイメージできる
絵画で言えば赤とか黒のような激しい色を使い過ぎるといいことはない
少しだけ効果的に使うのがいい
なければ味気ない

不安性障害が一般に長くは続かずに回復するのは
脳細胞そのものの問題ではなく
血流計の問題だろうと考えればよく説明できる













聖なる次元

聖なる次元に張られた糸が緊張するから
地上のすべては一次元増える


中国の豪雨による洪水被害

中国の豪雨による洪水被害は、2011-6-16日も終息の見通しは立っておらず、国営メディアはさらなる降雨への警戒を呼びかけている。1週間以上続く豪雨で発生した洪水や地滑りによる死者はすでに100人を超え、5万5000人以上が避難を余儀なくされている。

アスペクトの区別「-とる/ちょる」「-よる」

アスペクトの区別「-とる/ちょる」「-よる」
共通語では進行・完了のいずれの場合も「~ている」で表現するが、広島弁を始めとする西日本方言・九州方言の多くでは、結果継続態と進行態とで区別をする(アスペクトの区別)。結果継続態とは、ある行為や動作の行われた結果がまだそこに残っていることを表す形で、安芸方言では山陽道沿いで「~とる」、それ以外の地域で「~ちょる」を用いたが、「ちょる」を用いた地域も「~とる」になりつつある。進行態とは、行為や動作が行われつつあることを表す形で、広島弁では「~よる」を用いる。しかし現在(1998年時点)では区別のできない人が増加しつつある。岡山弁などと同じく、「たびょーる」(←食べよる)や「やりょーる」(←やりよる)のように融合した発音をすることもある。
[例] あめがふっとる(今も雨が降っていた跡がある)、あめがふりよる(今、雨が降っている)
[例] ドアが開いとる(ドアが開け放してある)、ドアが開きょーる(ドアが開こうとしている)

逆の逆

不穏な話なので話半分で聞いて欲しいのだけれど
物の価値というものはたいてい複数の人が欲しがることから生じている

コマーシャルはたくさんの人の欲望を掘り起こすことから価値を創造している
いい女というものは定義から複数の男が欲しがるものである
だから価値がある
価値あるものを所有することが権力である
暴力や知力を使って支配する

支配の具体的な形は売春である
これは直接の性的なサービスになるのだが
特段性的サービスでなくても
料理を作るのでもいいし
川から水を運ぶのでもいいし
老人を介護するのでもいい

同じサービスなら美人がいいと普通思うだろう

ーーー
さて、支配者は幸福かといえば
鈍感な支配者が幸福なだけである
普通の神経をしている支配者は自分の支配下にある人間を管理することに疲れ果てる

現代とは違い
全員を常時監視することは困難だろう

目を盗んでいい女に手を出す男が絶対にいる

さらに難しいのが女にしても意志があるということだ
誰の子供なのか女だけが知っている

こんなことがサル山の観察から言われて
それを人間社会にどの程度まで応用できるのか
大変怪しいと言われながらもなんとなく納得しつつ
現代に至る

暴力的な支配者に泣かされながら
陰で悪口を言いつつ
隙があれば女を奪い
女もそれなりに意地を通したりする

そこから先は、実は、という話がいくらも出てきて
何度も逆転が起こる

誰が支配者で誰が得をして誰が幸せなのか
ほどんど分からなくなる

ーー
女が暴力に支配されているというのも一面的な見方で
暴力装置を利用しているのもまた女なのだと思う

ーー
近くて遠いかの国の報道に接すると
何が幸せなのか、なぜかくっきりとあぶり出される気がする

ーー
こんなことを東京で放射能ホットスポットの報道を聞き、降る雨を眺めながら考えている

ーー
報道がいうところによれば、ある地域では、食品の放射能汚染を恐れて
学校給食を拒否して、自分の弁当を食べてもいい制度としているのだそうだ

これはどうかなあと思う
自分の子どもが食べなければいい
よその子どもが食べても食べなくても自由だ
というのだろうか

それは価値観の問題とか、自由の問題ではなく
無知の問題だと思わないのだろうか
無知がかわいそうと思うならば別の行動がありそうである

あるいは大変綿密に情報を共有した後に価値観の違いによって選択が別れたということなのだろうか
無知の問題ではないとしたら何の問題なのだろうか

ーー
オリンピックのマラソン内定者が雨にぬれて走る練習をしていた
アナウンサーも一緒に走っていた
何の意味があるのか分からないが
この時期に雨にぬれて走る企画はいじめだと思う



統計初歩

http://kogolab.jp/elearn/hamburger/ 
http://kogolab.jp/elearn/icecream/index.html 

endnote
GraphPad prism
Statmate
4steps エクセル統計
SPSS 
JMP9


階級

人生において全く何もしないことが最上の戦略であるような階級の人間

最上のことはすでに実現されていて
少しでも動くと最上状態は損なわれてしまう
そのような階級

一度現状に慣れてしまえばすべての変化は億劫である

一度現状に慣れてしまえばすべての変化は億劫である

翻訳語の問題

翻訳語の問題

たとえば英語やフランス語と日本語では語彙の輪郭が違うので
専門用語などを翻訳するときに困る

limitを限界と訳していつも日本語として意味が通るわけでもないが
いちいち面倒だし
分かっている人はlimitと読み替えてくれて意味が通じるので問題はない

読み替えてくれない人は意味が把握できないだろうが
書き手はそこまで親切ではない
そこでわからない人は多分他でもわからないからだ

そこでいっそのことリミットと書いたほうが限界と不親切に翻訳しているよりも
分かりやすいだろうということになる

経済学でいう限界もそのようだし
精神医学でいうlimitも日本語としては不安定なままだ

翻訳文化とはそのようなもので
言葉の境界がそもそも曖昧で
さらに言葉と言葉の関係が曖昧である

日本語自体が根本的に曖昧というのでもないと思うが
翻訳文化を長年習慣としているうちに曖昧さに慣れてしまい
さらには曖昧さをある種の味わいとして好む文化も成立したのだと思う

哲学とか心理学の翻訳の分からなさは本質的に分からない種類のものだと思う
分からないものなんだから分からないままに訳すのが忠実だとかそんな話もあったりする

本当は分かるはずのないものを
分かってしまうことが
超越論的ということである

その一方で日常使う言語はかなりの割合で方言である
生活に密着し実用に徹している方言はある意味で厳密である

東京の大学文化で発生している日本語というものがかなり怪しいのだ
しかし功罪測ってみれば功績の方が大きいだろうとは思う



抗うつ剤の効果について

うつ病の原因というのはその直前にある躁状態により細胞が疲弊してダウンしてしまうことである

従ってうつ病の予防は頑張りすぎて疲労を蓄積することがないように配慮することになる

ではうつ病のくすり、抗うつ剤は何にどのように効いているのか、無駄なのかという疑問が生まれる。

放置しておいても、自殺する以外は、自然に治るだろうとの考えもないではない。

抗うつ剤の特性として、割り切りが良くなる、くよくよしない、という成分がある。

明日のこと心配しないで寝てしまおうとか、この仕事は明日でいい、来週でいいと

ばっさり決めてしまえるとか、そのあたりが効いているのかもしれない。

母を訪ねて三千里

母を訪ねて三千里
病と貧困が人を襲い、人はただ翻弄されるのだが
その過程ではわずかながら慰めもある
愛も優しさも中を切ってみると病と貧困が詰まっている

ロッシ少年は気分屋で、というのは穏やかな言い方で、思いつめて旅に出てしまうのであるから
一種の病気なのだろう

ロッシの父は診療所を経営している事務長で夢想家
暴力を振るう飲んだくれのせいで機能不全家庭になっているのではないが
あきらかに過剰な夢想のせいで機能不全家庭になっている
もっと中庸を生きられないかねぇ
酒飲み暴力夫の反転図である
不都合には変わりはない
むしろ自分は正しいと信じている分、罪は重い
ロッシの母は夫の借金を返すためにアルゼンチンに出稼ぎに行くという共依存ぶり

ロッシ、おまえさ、三千里も離れた場所にいたい母親の気持ちくらいわかってやれよ

逆に三千里も離れてほっとしていたのに
まだしつこく追ってくるなんて
何というゾンビなのだろうと母はぞっとしたことだろう

コンチェッタというグラマーな美人を登場させて出ずっぱりにさせているところからも分かるように
リビドー説に忠実な物語である

当然父と子と母の血まみれのギリシャ悲劇オイディプスの物語が遠くに響いている


精神医学理論

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http://66mental.blog.so-net.ne.jp/2011-06-12-3
















































うつ病の二つの類型 喪失反応型と疲労ダウン形

うつ状態を大きく二つに分けると
1.悲哀反応、喪失反応としてのうつ
2.極度の疲労の後の回復状態としてのうつ
のふたつがある

1.は失恋とか死別とか失職、上司からの叱責、財産喪失、ペットロスなどが典型的である
2.は慢性持続性の疲労が回復不可能な程度まで蓄積された結果起こる。筋肉モデルで言えばマラソンの次の日の筋肉痛に当たる。

20年前までの日本のうつ病はメランコリー型というもので執着気質を基盤として発生した。これは2.のタイプである。

最近の日本の若者のうつ病は、誰かに叱責されるともう会社が怖くて出社できないというタイプで、1.のタイプのようである。

DAM理論では2.のタイプが良く説明できる。

1.のタイプは反応性の色彩が強く、生物学的な把握よりも心理学的な把握が有効だろうと思う。
場合によっては精神分析的な技法が有効だろうと考えている。

ーーー
1.についてはpsychoticな要素が少ないので昔はもちろんうつ病と呼ばなかった。昔はうつ病はpsychose だったのだ。neurose type の抑うつ神経症とは違うものと認識されていた。
しかしながら、精神病性のうつ病も経過が長くなるに連れて神経症成分が混入して症状を複雑にする。

現代型のうつ病はいきなり反応性の不安や喪失体験から発生する場合もあるようで
そのような成り立ちのものをなんと呼べばいいのか
問題もあるだろう。








コミュニケーションを振り返る

「つらい気持ちが続いているときには、
自分が信頼している人人とのコミュニケーションをちょっと振り返ってみてください。
それがスムーズにいっているようなら、心配はないでしょう。

そこに不安があるときには、お互いの考えを確認してください」

こんな言い方があっちでもこっちでも異口同音に繰り返される

ーー
誰かの内部に病気があるわけでもなく
ミスコミュニケーションがすれ違いの原因なのだから
よく話しあって、あるいは他の方法でよくわかり合って
解決しなさいというわけです

個人が病気なのではなくて
関係が病気だとというよな『雰囲気』の話で受けはいいと思う

主観の病理ではなくて間主観の病理だとか
発言者も聴衆も意味を限定できない話を始めたりする

それはそれでいいんだ
それぞれの世界がある

ーー
もちろん文句なしにいいことなんだけれど
これでは足りない人や
方向が違う人が中にはいるので
では誰がそれに当たるのか当たらないのか
そのあたりから話が難しくなる

それを何も言わないで
ミスコミュニケーションを繰り返して語っていれば
なかなかの達人に見えるわけだ

ーー
コミュニケーションを振り返る

ことをまずやってみよう

オリーブ

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雨の日

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飛行機が見えています



Manha Do Carnaval(カーニバルの朝)




六本木
すべてが終わった朝

こんなにも新しい光
黒い髪
夏めいた風

新しい愛のための
新しい愛の歌を
あなたのために歌えないなら
これから先の人生に何の意味があるだろう

生まれ変わったことを歌えないなら
歌に何の意味があるだろう

この愛と他の愛の決定的な違いを歌えないなら
今日からの私に何の意味があるだろう

主観的には壮大で未曽有の悩みだったし決心だったけれど
客観的にはありふれたものだった

賞味期限切れのラコール

よくあること
ありふれた味

蓄積される歪みのエネルギー

警告されたまま起こらない地震

原発の放射能漏れを止めに行くのではなくて
プルトニウムを測定するかどうかを会議し続けて会議は回る

ボランティアに行けるということは必要のない人間なのだ
君にしても私にしても

最近のトマトはトマトの味がしないんです
山小屋の畑で祖母の作ったトマトはトマトの味がした

人々の善意が組織の腐敗を進行させている







映画監督やテレビプロデューサのオーラ

映画監督やテレビプロデューサのオーラについて考える

彼らからは無言の意思伝達がびしびしと発射されていて
映画出演者はその通りに動いてしまうし
テレビ出演者はその意志のとおりに話してしまう

インタビューで、都合のいい発言が出るのは、
もちろん編集の段階で選んでいるし切り貼りしているからだけれど
それだけではない

プロデューサの無言の圧力というか決定というか、あるいはオーラが、
ついつい、その欲しい言語を引き出すのだ

人間というものは不思議だと思う

オリーブ

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オリーブ

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「非現実的な夢想家として」 村上春樹

読んだばかりなので論評はあととして採録
なるほど、この人らしいのかもしれない

ーーーーー
9日のスペインのカタルーニャ国際賞授賞式で配布された作家村上春樹さんの受賞スピーチの原稿全文は次の通り。(原文のまま)

 「非現実的な夢想家として」

 僕がこの前バルセロナを訪れたのは二年前の春のことです。サイン会を開いたとき、驚くほどたくさんの読者が集まってくれました。長い列ができて、一時間半かけてもサインしきれないくらいでした。どうしてそんなに時間がかかったかというと、たくさんの女性の読者たちが僕にキスを求めたからです。それで手間取ってしまった。

 僕はこれまで世界のいろんな都市でサイン会を開きましたが、女性読者にキスを求められたのは、世界でこのバルセロナだけです。それひとつをとっても、バルセロナがどれほど素晴らしい都市であるかがわかります。この長い歴史と高い文化を持つ美しい街に、もう一度戻ってくることができて、とても幸福に思います。

 でも残念なことではありますが、今日はキスの話ではなく、もう少し深刻な話をしなくてはなりません。

 ご存じのように、去る3月11日午後2時46分に日本の東北地方を巨大な地震が襲いました。地球の自転が僅かに速まり、一日が百万分の1.8秒短くなるほどの規模の地震でした。

 地震そのものの被害も甚大でしたが、その後襲ってきた津波はすさまじい爪痕を残しました。場所によっては津波は39メートルの高さにまで達しました。39メートルといえば、普通のビルの10階まで駆け上っても助からないことになります。海岸近くにいた人々は逃げ切れず、二万四千人近くが犠牲になり、そのうちの九千人近くが行方不明のままです。堤防を乗り越えて襲ってきた大波にさらわれ、未だに遺体も見つかっていません。おそらく多くの方々は冷たい海の底に沈んでいるのでしょう。そのことを思うと、もし自分がその立場になっていたらと想像すると、胸が締めつけられます。生き残った人々も、その多くが家族や友人を失い、家や財産を失い、コミュニティーを失い、生活の基盤を失いました。根こそぎ消え失せた集落もあります。生きる希望そのものをむしり取られた人々も数多くおられたはずです。

 日本人であるということは、どうやら多くの自然災害とともに生きていくことを意味しているようです。日本の国土の大部分は、夏から秋にかけて、台風の通り道になっています。毎年必ず大きな被害が出て、多くの人命が失われます。各地で活発な火山活動があります。そしてもちろん地震があります。日本列島はアジア大陸の東の隅に、四つの巨大なプレートの上に乗っかるような、危なっかしいかっこうで位置しています。我々は言うなれば、地震の巣の上で生活を営んでいるようなものです。

 台風がやってくる日にちや道筋はある程度わかりますが、地震については予測がつきません。ただひとつわかっているのは、これで終りではなく、別の大地震が近い将来、間違いなくやってくるということです。おそらくこの20年か30年のあいだに、東京周辺の地域を、マグニチュード8クラスの大型地震が襲うだろうと、多くの学者が予測しています。それは十年後かもしれないし、あるいは明日の午後かもしれません。もし東京のような密集した巨大都市を、直下型の地震が襲ったら、それがどれほどの被害をもたらすことになるのか、正確なところは誰にもわかりません。

 にもかかわらず、東京都内だけで千三百万人の人々が今も「普通の」日々の生活を送っています。人々は相変わらず満員電車に乗って通勤し、高層ビルで働いています。今回の地震のあと、東京の人口が減ったという話は耳にしていません。

 なぜか?あなたはそう尋ねるかもしれません。どうしてそんな恐ろしい場所で、それほど多くの人が当たり前に生活していられるのか?恐怖で頭がおかしくなってしまわないのか、と。

 日本語には無常(mujo)という言葉があります。いつまでも続く状態=常なる状態はひとつとしてない、ということです。この世に生まれたあらゆるものはやがて消滅し、すべてはとどまることなく変移し続ける。永遠の安定とか、依って頼るべき不変不滅のものなどどこにもない。これは仏教から来ている世界観ですが、この「無常」という考え方は、宗教とは少し違った脈絡で、日本人の精神性に強く焼き付けられ、民族的メンタリティーとして、古代からほとんど変わることなく引き継がれてきました。

 「すべてはただ過ぎ去っていく」という視点は、いわばあきらめの世界観です。人が自然の流れに逆らっても所詮は無駄だ、という考え方です。しかし日本人はそのようなあきらめの中に、むしろ積極的に美のあり方を見出してきました。

 自然についていえば、我々は春になれば桜を、夏には蛍を、秋になれば紅葉を愛でます。それも集団的に、習慣的に、そうするのがほとんど自明のことであるかのように、熱心にそれらを観賞します。桜の名所、蛍の名所、紅葉の名所は、その季節になれば混み合い、ホテルの予約をとることもむずかしくなります。

 どうしてか?

 桜も蛍も紅葉も、ほんの僅かな時間のうちにその美しさを失ってしまうからです。我々はそのいっときの栄光を目撃するために、遠くまで足を運びます。そしてそれらがただ美しいばかりでなく、目の前で儚く散り、小さな灯りを失い、鮮やかな色を奪われていくことを確認し、むしろほっとするのです。美しさの盛りが通り過ぎ、消え失せていくことに、かえって安心を見出すのです。

 そのような精神性に、果たして自然災害が影響を及ぼしているかどうか、僕にはわかりません。しかし我々が次々に押し寄せる自然災害を乗り越え、ある意味では「仕方ないもの」として受け入れ、被害を集団的に克服するかたちで生き続けてきたのは確かなところです。あるいはその体験は、我々の美意識にも影響を及ぼしたかもしれません。

 今回の大地震で、ほぼすべての日本人は激しいショックを受けましたし、普段から地震に馴れている我々でさえ、その被害の規模の大きさに、今なおたじろいでいます。無力感を抱き、国家の将来に不安さえ感じています。

 でも結局のところ、我々は精神を再編成し、復興に向けて立ち上がっていくでしょう。それについて、僕はあまり心配してはいません。我々はそうやって長い歴史を生き抜いてきた民族なのです。いつまでもショックにへたりこんでいるわけにはいかない。壊れた家屋は建て直せますし、崩れた道路は修復できます。

 結局のところ、我々はこの地球という惑星に勝手に間借りしているわけです。どうかここに住んで下さいと地球に頼まれたわけじゃない。少し揺れたからといって、文句を言うこともできません。ときどき揺れるということが地球の属性のひとつなのだから。好むと好まざるとにかかわらず、そのような自然と共存していくしかありません。

 ここで僕が語りたいのは、建物や道路とは違って、簡単には修復できないものごとについてです。それはたとえば倫理であり、たとえば規範です。それらはかたちを持つ物体ではありません。いったん損なわれてしまえば、簡単に元通りにはできません。機械が用意され、人手が集まり、資材さえ揃えばすぐに拵えられる、というものではないからです。

 僕が語っているのは、具体的に言えば、福島の原子力発電所のことです。

 みなさんもおそらくご存じのように、福島で地震と津波の被害にあった六基の原子炉のうち、少なくとも三基は、修復されないまま、いまだに周辺に放射能を撒き散らしています。メルトダウンがあり、まわりの土壌は汚染され、おそらくはかなりの濃度の放射能を含んだ排水が、近海に流されています。風がそれを広範囲に運びます。

 十万に及ぶ数の人々が、原子力発電所の周辺地域から立ち退きを余儀なくされました。畑や牧場や工場や商店街や港湾は、無人のまま放棄されています。そこに住んでいた人々はもう二度と、その地に戻れないかもしれません。その被害は日本ばかりではなく、まことに申し訳ないのですが、近隣諸国に及ぶことにもなりそうです。

 なぜこのような悲惨な事態がもたらされたのか、その原因はほぼ明らかです。原子力発電所を建設した人々が、これほど大きな津波の到来を想定していなかったためです。何人かの専門家は、かつて同じ規模の大津波がこの地方を襲ったことを指摘し、安全基準の見直しを求めていたのですが、電力会社はそれを真剣には取り上げなかった。なぜなら、何百年かに一度あるかないかという大津波のために、大金を投資するのは、営利企業の歓迎するところではなかったからです。

 また原子力発電所の安全対策を厳しく管理するべき政府も、原子力政策を推し進めるために、その安全基準のレベルを下げていた節が見受けられます。

 我々はそのような事情を調査し、もし過ちがあったなら、明らかにしなくてはなりません。その過ちのために、少なくとも十万を超える数の人々が、土地を捨て、生活を変えることを余儀なくされたのです。我々は腹を立てなくてはならない。当然のことです。

 日本人はなぜか、もともとあまり腹を立てない民族です。我慢することには長けているけれど、感情を爆発させるのはそれほど得意ではない。そういうところはあるいは、バルセロナ市民とは少し違っているかもしれません。でも今回は、さすがの日本国民も真剣に腹を立てることでしょう。

 しかしそれと同時に我々は、そのような歪んだ構造の存在をこれまで許してきた、あるいは黙認してきた我々自身をも、糾弾しなくてはならないでしょう。今回の事態は、我々の倫理や規範に深くかかわる問題であるからです。

 ご存じのように、我々日本人は歴史上唯一、核爆弾を投下された経験を持つ国民です。1945年8月、広島と長崎という二つの都市に、米軍の爆撃機によって原子爆弾が投下され、合わせて20万を超す人命が失われました。死者のほとんどが非武装の一般市民でした。しかしここでは、その是非を問うことはしません。

 僕がここで言いたいのは、爆撃直後の20万の死者だけではなく、生き残った人の多くがその後、放射能被曝の症状に苦しみながら、時間をかけて亡くなっていったということです。核爆弾がどれほど破壊的なものであり、放射能がこの世界に、人間の身に、どれほど深い傷跡を残すものかを、我々はそれらの人々の犠牲の上に学んだのです。

 戦後の日本の歩みには二つの大きな根幹がありました。ひとつは経済の復興であり、もうひとつは戦争行為の放棄です。どのようなことがあっても二度と武力を行使することはしない、経済的に豊かになること、そして平和を希求すること、その二つが日本という国家の新しい指針となりました。

 広島にある原爆死没者慰霊碑にはこのような言葉が刻まれています。

 「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」

 素晴らしい言葉です。我々は被害者であると同時に、加害者でもある。そこにはそういう意味がこめられています。核という圧倒的な力の前では、我々は誰しも被害者であり、また加害者でもあるのです。その力の脅威にさらされているという点においては、我々はすべて被害者でありますし、その力を引き出したという点においては、またその力の行使を防げなかったという点においては、我々はすべて加害者でもあります。

 そして原爆投下から66年が経過した今、福島第一発電所は、三カ月にわたって放射能をまき散らし、周辺の土壌や海や空気を汚染し続けています。それをいつどのようにして止められるのか、まだ誰にもわかっていません。これは我々日本人が歴史上体験する、二度目の大きな核の被害ですが、今回は誰かに爆弾を落とされたわけではありません。我々日本人自身がそのお膳立てをし、自らの手で過ちを犯し、我々自身の国土を損ない、我々自身の生活を破壊しているのです。

 何故そんなことになったのか?戦後長いあいだ我々が抱き続けてきた核に対する拒否感は、いったいどこに消えてしまったのでしょう?我々が一貫して求めていた平和で豊かな社会は、何によって損なわれ、歪められてしまったのでしょう?

 理由は簡単です。「効率」です。

 原子炉は効率が良い発電システムであると、電力会社は主張します。つまり利益が上がるシステムであるわけです。また日本政府は、とくにオイルショック以降、原油供給の安定性に疑問を持ち、原子力発電を国策として推し進めるようになりました。電力会社は膨大な金を宣伝費としてばらまき、メディアを買収し、原子力発電はどこまでも安全だという幻想を国民に植え付けてきました。

 そして気がついたときには、日本の発電量の約30パーセントが原子力発電によってまかなわれるようになっていました。国民がよく知らないうちに、地震の多い狭い島国の日本が、世界で三番目に原発の多い国になっていたのです。

 そうなるともうあと戻りはできません。既成事実がつくられてしまったわけです。原子力発電に危惧を抱く人々に対しては「じゃああなたは電気が足りなくてもいいんですね」という脅しのような質問が向けられます。国民の間にも「原発に頼るのも、まあ仕方ないか」という気分が広がります。高温多湿の日本で、夏場にエアコンが使えなくなるのは、ほとんど拷問に等しいからです。原発に疑問を呈する人々には、「非現実的な夢想家」というレッテルが貼られていきます。

 そのようにして我々はここにいます。効率的であったはずの原子炉は、今や地獄の蓋を開けてしまったかのような、無惨な状態に陥っています。それが現実です。

 原子力発電を推進する人々の主張した「現実を見なさい」という現実とは、実は現実でもなんでもなく、ただの表面的な「便宜」に過ぎなかった。それを彼らは「現実」という言葉に置き換え、論理をすり替えていたのです。

 それは日本が長年にわたって誇ってきた「技術力」神話の崩壊であると同時に、そのような「すり替え」を許してきた、我々日本人の倫理と規範の敗北でもありました。我々は電力会社を非難し、政府を非難します。それは当然のことであり、必要なことです。しかし同時に、我々は自らをも告発しなくてはなりません。我々は被害者であると同時に、加害者でもあるのです。そのことを厳しく見つめなおさなくてはなりません。そうしないことには、またどこかで同じ失敗が繰り返されるでしょう。

 「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」

 我々はもう一度その言葉を心に刻まなくてはなりません。

 ロバート・オッペンハイマー博士は第二次世界大戦中、原爆開発の中心になった人ですが、彼は原子爆弾が広島と長崎に与えた惨状を知り、大きなショックを受けました。そしてトルーマン大統領に向かってこう言ったそうです。

 「大統領、私の両手は血にまみれています」

 トルーマン大統領はきれいに折り畳まれた白いハンカチをポケットから取り出し、言いました。「これで拭きたまえ」

 しかし言うまでもなく、それだけの血をぬぐえる清潔なハンカチなど、この世界のどこを探してもありません。

 我々日本人は核に対する「ノー」を叫び続けるべきだった。それが僕の意見です。

 我々は技術力を結集し、持てる叡智を結集し、社会資本を注ぎ込み、原子力発電に代わる有効なエネルギー開発を、国家レベルで追求すべきだったのです。たとえ世界中が「原子力ほど効率の良いエネルギーはない。それを使わない日本人は馬鹿だ」とあざ笑ったとしても、我々は原爆体験によって植え付けられた、核に対するアレルギーを、妥協することなく持ち続けるべきだった。核を使わないエネルギーの開発を、日本の戦後の歩みの、中心命題に据えるべきだったのです。

 それは広島と長崎で亡くなった多くの犠牲者に対する、我々の集合的責任の取り方となったはずです。日本にはそのような骨太の倫理と規範が、そして社会的メッセージが必要だった。それは我々日本人が世界に真に貢献できる、大きな機会となったはずです。しかし急速な経済発展の途上で、「効率」という安易な基準に流され、その大事な道筋を我々は見失ってしまったのです。

 前にも述べましたように、いかに悲惨で深刻なものであれ、我々は自然災害の被害を乗り越えていくことができます。またそれを克服することによって、人の精神がより強く、深いものになる場合もあります。我々はなんとかそれをなし遂げるでしょう。

 壊れた道路や建物を再建するのは、それを専門とする人々の仕事になります。しかし損なわれた倫理や規範の再生を試みるとき、それは我々全員の仕事になります。我々は死者を悼み、災害に苦しむ人々を思いやり、彼らが受けた痛みや、負った傷を無駄にするまいという自然な気持ちから、その作業に取りかかります。それは素朴で黙々とした、忍耐を必要とする手仕事になるはずです。晴れた春の朝、ひとつの村の人々が揃って畑に出て、土地を耕し、種を蒔くように、みんなで力を合わせてその作業を進めなくてはなりません。一人ひとりがそれぞれにできるかたちで、しかし心をひとつにして。

 その大がかりな集合作業には、言葉を専門とする我々=職業的作家たちが進んで関われる部分があるはずです。我々は新しい倫理や規範と、新しい言葉とを連結させなくてはなりません。そして生き生きとした新しい物語を、そこに芽生えさせ、立ち上げてなくてはなりません。それは我々が共有できる物語であるはずです。それは畑の種蒔き歌のように、人々を励ます律動を持つ物語であるはずです。我々はかつて、まさにそのようにして、戦争によって焦土と化した日本を再建してきました。その原点に、我々は再び立ち戻らなくてはならないでしょう。

 最初にも述べましたように、我々は「無常(mujo)」という移ろいゆく儚い世界に生きています。生まれた生命はただ移ろい、やがて例外なく滅びていきます。大きな自然の力の前では、人は無力です。そのような儚さの認識は、日本文化の基本的イデアのひとつになっています。しかしそれと同時に、滅びたものに対する敬意と、そのような危機に満ちた脆い世界にありながら、それでもなお生き生きと生き続けることへの静かな決意、そういった前向きの精神性も我々には具わっているはずです。

 僕の作品がカタルーニャの人々に評価され、このような立派な賞をいただけたことを、誇りに思います。我々は住んでいる場所も遠く離れていますし、話す言葉も違います。依って立つ文化も異なっています。しかしなおかつそれと同時に、我々は同じような問題を背負い、同じような悲しみと喜びを抱えた、世界市民同士でもあります。だからこそ、日本人の作家が書いた物語が何冊もカタルーニャ語に翻訳され、人々の手に取られることにもなるのです。僕はそのように、同じひとつの物語を皆さんと分かち合えることを嬉しく思います。夢を見ることは小説家の仕事です。しかし我々にとってより大事な仕事は、人々とその夢を分かち合うことです。その分かち合いの感覚なしに、小説家であることはできません。

 カタルーニャの人々がこれまでの歴史の中で、多くの苦難を乗り越え、ある時期には苛酷な目に遭いながらも、力強く生き続け、豊かな文化を護ってきたことを僕は知っています。我々のあいだには、分かち合えることがきっと数多くあるはずです。

 日本で、このカタルーニャで、あなた方や私たちが等しく「非現実的な夢想家」になることができたら、そのような国境や文化を超えて開かれた「精神のコミュニティー」を形作ることができたら、どんなに素敵だろうと思います。それこそがこの近年、様々な深刻な災害や、悲惨きわまりないテロルを通過してきた我々の、再生への出発点になるのではないかと、僕は考えます。我々は夢を見ることを恐れてはなりません。そして我々の足取りを、「効率」や「便宜」という名前を持つ災厄の犬たちに追いつかせてはなりません。我々は力強い足取りで前に進んでいく「非現実的な夢想家」でなくてはならないのです。人はいつか死んで、消えていきます。しかしhumanityは残ります。それはいつまでも受け継がれていくものです。我々はまず、その力を信じるものでなくてはなりません。

 最後になりますが、今回の賞金は、地震の被害と、原子力発電所事故の被害にあった人々に、義援金として寄付させていただきたいと思います。そのような機会を与えてくださったカタルーニャの人々と、ジャナラリター・デ・カタルーニャのみなさんに深く感謝します。そして先日のロルカの地震の犠牲になられたみなさんにも、深い哀悼の意を表したいと思います。(バルセロナ共同)

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